ソーシャルインフレーション ―その現状、要因と今後の展望―④
公開日:2025年6月25日
その他

本連載では、ソーシャルインフレーション、すなわち「(損害賠償責任保険の)保険金支払いが一般的な経済的インフレーションを上回って上昇」(注1)する現象について、その現状、要因と今後の展望を述べていきます。
連載4回目となる最終回は、ソーシャルインフレーションの今後の展望についてみていきます。
ソーシャルインフレーションの今後の展望
(1)社会に関する要因
ソーシャルインフレーションに影響を与える社会に関する要因としては、①ミレニアル世代の台頭、②世代を超えた企業への不信感が挙げられました(連載第2回で詳述)。
米国においては、刑事訴訟だけでなく、民事訴訟においても陪審制が採用されており、一般市民から選ばれた陪審員が合議により事実認定を行い、評決を下しています。
①、②の要因によって、企業に対して厳しい姿勢で臨む陪審員が増えることで、評決額がより大きくなる可能性が考えられます。
①のミレニアル世代の台頭に関しては、ベビーブーマー世代、X世代の自然減に伴い、1980年代前半から1990年代半ばまでに生まれたミレニアル世代の占める割合は今後さらに増していくことが予想されます。
また、②の世代を超えた企業への不信感については、2000年代後半の世界金融危機の発生以降、継続的に醸成されてきたものであることから、少なくとも短期的な解消は見込めません。
以上から、社会に関する要因は今後も存続し、ソーシャルインフレーションに影響していくと見込まれます。
ソーシャルインフレーションの要因について解説しています。
(2)経済に関する要因
経済に関する要因としては、①弁護士による宣伝活動(リーガルマーケティング)の拡大、②所得格差、③医療費の高騰が挙げられました(連載第2回で詳述)。
①に関しては、潜在的な被害者に訴訟提起を働きかけるリーガルマーケティングが展開されることで、より多くの訴訟が提起され、高額の賠償につながっている可能性が考えられます。
ここから、過度のリーガルマーケティングは濫訴につながるとして、法律による規制を設けるべきではないかという見方もできます。
しかしながら、弁護士による広告は表現行為として憲法上、営利的言論(commercial speech)と呼ばれ、表現の自由を保障する連邦憲法修正一条の下で一定の保護を受けるものです(注2)。言い換えれば、弁護士広告の規制は憲法上の論点となるため、規制の実現に向けては高いハードルがあるといえます。
②の所得格差に関しては、所得格差が大きい地域ほど、陪審員が高額の評決を下す傾向があるとされています。ただ、米国における所得格差の拡大は1981年から継続するものであり、短期的に解消することは考えにくいといえます。
③の医療費の高騰は、人身の被害に関する損害賠償額に直接影響し、ソーシャルインフレーションを進展させる一要素となっていました。
米国における医療費の高騰は、日本等と異なり医療サービス提供者の裁量で診療費や薬価を決められることや、医療従事者の慢性的な人手不足などの複合的な要因によるものといわれます。大統領選挙のたびに争点の一つに挙げられるほど根深いものであり、この問題も短期的な解消は望めません。
以上から、経済に関する要因は今後も存続し、ソーシャルインフレーションに影響していくと見込まれます。
(3)法制度に関する要因
法制度に関する要因としては、①第三者訴訟ファンド(TPLF)の拡大、②不法行為改革の停滞、③司法地獄の存在が挙げられました(連載第3回で詳述)。
訴訟当事者に訴訟のための資金を提供する一方で、勝訴時に収益を受け取るTPLFをめぐっては、訴訟の長期化や評決額/和解金の高騰につながるといった懸念が示されていました。
そのため、TPLFへの法的規制が検討されているものの、連邦レベルでは資金提供者の情報を開示することを求める法案が提出された段階であり、州レベルでの規制が実現しているのもウィスコンシン州やモンタナ州等の一部に留まるのが現状です。
②の不法行為改革に関しては、懲罰的賠償(注3)やクラスアクション(注4)に代表される評決額の高騰や濫訴につながる制度のあり方を見直す動きとして繰り返し試みられてきたものの、一部の州でこれが進まず、後退するケースもみられます。
その一例として、専門家証人(注5)の適格性に関し、1993年に連邦最高裁が示した厳格なダウバート基準(注6)を採用せず、2019年に至っても旧来の緩やかなフライ基準(注7)を維持しつづけることを州最高裁が示したペンシルベニア州のケースが挙げられます。
③の司法地獄とは、アメリカ不法行為改革財団(American Tort Reform Foundation、ATRA)が認定する「民事事件において、裁判官が組織的に、多くの場合に被告に不利となる形で、不当かつ不公平に法律および訴訟手続を適用している地域」です。
こうした地域は自己に有利な判決が期待される裁判所を選んで訴訟提起するフォーラムショッピング(法廷地漁り)の対象となり、ソーシャルインフレーションにつながります。
最新の司法地獄ランキングは毎年12月に公表されていますが、以下のとおり(注8)、過去5年度のランキングトップ5の顔ぶれはほぼ変わっていません。

以上から、法制度に関する要因は今後も存続し、ソーシャルインフレーションに影響していくと見込まれます。
ソーシャルインフレーションの要因について解説しています。
おわりに
これまでにみてきたとおり、ソーシャルインフレーションは、社会、経済、法制度の観点で整理される複数の要因が絡み合って生じているものであり、これらの要因は今後も存在し続けると考えられます。
よって、米国におけるソーシャルインフレーションは当面続くことが見込まれます。
米国でビジネスを展開する事業者においては、こうした現象が事業におよぼしうる影響を踏まえ、米国における訴訟環境や動向に注視するともに、必要な対策を講じていくことが求められます。
ソーシャルインフレーションの現状について解説しています。
(注2)太田裕之「弁護士広告と表現の自由」『同志社法学』、43巻1号、4-5頁
(注3)加害者の行為が強く非難される場合などにおいて、損害を回復させるための填補賠償とは別に制裁を加え将来的に同様の行為を行うことを抑止する目的とした賠償を課すもの。
(注4)数の者がある事項に関して共通の利害関係を有する場合に、抽象的なクラスを規定し、1人または数人がその利害集団全員を代表して行う訴訟。
(注5)特定分野の専門的な知識等を有する者で、訴訟手続きにおいて自らの専門知識を提供し、複雑な技術的または科学的な問題を理解するために裁判所を支援する役割を担う。
(注6)「その理論や技術は実証されているか」、「その理論や技術は学会の査読を受け、公表されているか」など、複数の観点から審査する。
(注7)「その理論や技術は科学界において一般に受け入れられているか」によって審査する。
(注8)American Tort Reform Association “Reports”に基づき作成。なお、比較の便宜上、市や郡としてランク入りしている場合もその市や郡が所在する州名を記した。
MS&ADインターリスク総研株式会社発行のPLレポート(製品安全)2025年3月号を基に作成したものです。